妙心寺 塔頭 隣華院

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隣華院のご紹介


式台・客殿・大玄関

 隣華院は妙心寺塔頭の一寺で臨済宗妙心寺派に属している。開山は南化玄興、開基は脇坂 安治(わきざかやすはる)、慶長4年(1599)の創建である。  南化玄興(1538-1604)は、「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、火炎の中に身を投じた快川紹喜の弟子として知られ、元亀元年(1570)33歳の若さで妙心寺58世になった。以来住持たること四度におよんでいる。天龍寺の策彦周良のすすめで「安土山記」を草して信長を大いに喜ばせたり、美濃の瑞龍寺に新たな丈室を営んだり、あるいは妙心寺山内に大通院を開創、また、尾張妙興寺の復興に尽力、さらには後陽成天皇や豊臣秀吉、上杉景勝、直江兼続らに帰依された桃山期における傑僧である。


 秀吉は、世嗣鶴松(棄丸)の夭折にともない、東山に祥雲寺を建立して南化を迎えた。竣工は文禄2年(1593)。その内部を飾ったのが長谷川等伯および一門によって描かれた「楓図」をはじめとする障壁画郡である。のちに祥雲寺は寺地が智積院に与えられてしまうが、そこから一通の書状が脇坂安治(1554-1626)に宛てて出された。安治は若年時より秀吉に仕えた江州出身の武将で、賊ヶ岳の七本槍の一人としてあるいは文禄・慶長の朝鮮出兵で知られる。天正6年(1578)に播州三木砦の別所長治を攻めた際、秀吉から輪違を描いた赤幌を与えられたのが家紋「輪違」の由来になっている。



 南化のその消息が隣華院建立のそもそもを語る。「妙心寺中、愚老の為に隠居所一庵を御建立有るべく由に候、奇特千万に候」と、安治の申し出を南化は受け、普請は進む。そのころ京都の公家や神社を管轄していた秀吉の五奉行の一人、前田玄以から南化に宛てられた書状も興味深い。「妙心寺の寺北に新たに屋敷を開き、一寺を御建立有るべく候由、尤に存じ候、然れども洛中の当たりは、所々山林竹木に至る迄、伐採するべからず候旨、元来御法度の儀に候、而て当寺内は松林に候事任じられ、御覚悟成らるべく其の意に候」と、現状変更は今も昔も変わりなくきびしい。


 妙心寺中に一寺が落慶、安治は亡き父安明(-1568)の33回忌法要を営む。南化の香語によると慶長4年6月4日であった。。「院に扁するに隣華を以てす」、安明の法名「隣華院殿陽春聯芳大禅定門」にちなんでいる。南化は祥雲寺と隣華院を行き来して四度目の妙心寺住持をつとめたりしていたが、慶長9年(1640)5月20日に示寂。あくる一周忌に後陽成天皇から「定慧円明国師」を賜り、塔に扁して「無礙」といっている。


 南化亡き後の当院は安治の息の一人、定水玄済が継いで以来脇坂家縁者が住持をつとめ、同家の香華所とされてきた。長谷川等伯の「山水図」は創建時の襖としてのこされているが、その他の建物等は改築や改修が加えられている。


 当院9世江山祖成が文化14年(1718)に大願を立て、ひきついだ10世南海玄等によって大改修が進められた。「華園隣華禅院再建記」によると、文政3年(1820)正月に工事をはじめ、約5年を要して現在の客殿(方丈)の上梁を果たし、その後も諸堂を建て、表門の重修、大玄関の再造など、すべてを了えたのは天保3年(1832年)。土木工事からすると十有六年の長時日を費やしている。等伯の「山水図」を除く客殿の障壁画はこの再建時に狩野永岳によって描かれた。


 それからまた星霜が流れて再び老朽化が進んだ折から、この度「定慧円明国師」400年遠諱を記念に、多くの方々のご支援を得て客殿や大玄関など諸堂の修復が減った。
 こいねがわくは、とこしえなる無礙を。


室中(山水図)

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